江戸期今泉今右衛門

有田磁器の創成と鍋島藩窯

文禄・慶長の役後、李参平を始めとする李朝の帰化陶工団により
有田泉山の地で良質の陶石が発見され、
1610年代に日本で初めての磁器が有田で焼かれました。
その後1640年代に中国より赤絵(色絵)の技法が伝わり、
その頃より初代今右衛門も赤絵付の仕事をしたと思われます。
17世紀後期には有田皿山の窯元は150軒前後で、赤絵屋は
寛文年間に有田内山に11軒(後に16軒)を集結し赤絵町が形成され、
鍋島藩の保護のもとに置かれました。その中でも最も技術の優れた
今泉今右衛門家が藩の御用赤絵師として指名され、藩窯の色絵付を下命されました。
鍋島藩窯では、市場に全く出さない献上品・贈答品・城内用品の磁器を制作させるため、
藩主の命を受けた「陶器方役」として優れた陶工31人を選び造らせ、
色絵付は今右衛門家が行いました。
御用赤絵屋としての今右衛門家では、斎戒沐浴をして色絵付をし、
赤絵窯のまわりには鍋島藩の紋章入りの幔幕を張り巡らし、高張り提灯を掲げ、
藩吏の警護の下で赤絵窯を焚き続けたと伝えられています。
尚、江戸中期の多久家古文書によりますと、今右衛門家の技術の優秀さを
「本朝無類」の色絵と認めていることが書き記されています。
特に赤絵の秘法が他藩へ洩れるのを防ぐため、藩は家督相続法をつくり、
一子相伝の秘法として保護をしました。